労使双方の埋まらない期待のズレ

会社というものは、本来、個人が上げた成果に対して評価責任を負う存在だ、とされている。少なくとも建前としてはそうだ。

ただ、現実にはなかなかそうはいかない。制度や組織の都合があり、他者との比較があり、さまざまな制約が重なる。結果として、個々人の成果が十分に評価されないことは珍しくない。まして、その成果の先に本人が感じる達成感や納得感、いわば「幸せ」までを、会社が把握し、満たすことなどできない。

一方で、働く側にも役割がある。
個人は、受け取る対価に応じた役務を提供する、という前提で雇われている。

とはいえ、ここでも理想的な等価交換が常に成立しているわけではない。力を出し切って働く人もいれば、与えられた役割の範囲に意識的に留まる人もいる。中には、あえて対価以下の働き方を選んでいる人もいるだろう。

そう考えると、人生において仕事をどう意味づけるか、仕事を通じて何かを得ることで満たされたいのであれば、その何かは自分で決めなければならないし、それを得られなかった場合の感情の処理は自分で行わなければならない。つまり「幸福」実現の責任は、会社ではなく個人の裁量だと自覚しなければならない。

だから、雇用契約なるものは、会社も個人も、相手が自分の期待を満たさないことを前提に結ばれているのかも知れない。雇用契約とは、期待をすべて一致させる仕組みではなく、期待がずれたままでも、まあ、何となく状態が維持できるような不完全な契約なのだと思う。

だからこそ、契約や制度では埋めきれない部分は、個人と個人の信頼関係が静かに支えていることが必要なのかもしれない。

そんなことを考えている。


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